森・里・街がきらめく ふるさと「南丹市」
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城山

城山
■八木城本丸跡
城山 八木城は、八木南西部に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の 要害である。丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、 中世の山城としては有数の規模を誇る。丹波守護代内藤氏の居城として伝えられ、 15世紀~16世紀に丹波地方の中心として機能した。城は、明智光秀の丹波侵攻により没落したが、現在は、石垣の一部や曲輪跡が山頂部だけでなく尾根 づたいや谷間にも残り、当時の雄大な様子を伝えている。
■八木城と内藤ジョアン
城跡を訪ねて城山へ登る
  城山遠景  

城山は八木町の西南部にそびえ、前に桂川が流れ、山陰街道を眼下に望む口丹波の要害の地です。

  
 八木町の西、亀岡市との境にそびえたつようにある城山は、標高344メートルの小高い山。ふだんは訪れる人も少なく、松茸などが採れるアカマツ、スギ、クヌギなどが茂るだけの小さな山ですが、そこには中世からの古い歴史が秘められています。
 この城山に築かれた八木城は、丹波の守護代であった内藤氏の居城でしたが、戦国時代に名を馳せ波乱の人生を送ったキリシタン武将、内藤ジョアンゆかりの城として訪れる人にいっそうの感慨をもたらしているように思えます。
 城山の八木城跡へ登るには幾つかのルートがあります。その中で手頃なハイキングコースとなるのは、山の北西部の妙見宮の側から、もう一つは北東部の春日神社の側からのルートです。二つのルートを結ぶ城山自然遊歩道には、丸太階段や案内板が設けられ、きれいに整備されることになっています。 春日神社の社殿を左に見て、京都縦貫自動車道の下を潜り、登山口へ向かいます。うっそうとした木立に包まれた山道はしっかりと踏み固められていて、薄暗い中を登って行きます。道はまっすぐに登りにかかり、落ち葉がかさこそと音を立てるだけ、他には小鳥の鳴き声が時折聞こえる静けさです。植林されたスギ、ヒノキが遥か頭の上で太陽光をさえぎり、辺りには湿った空気が流れています。
  
八木城石垣    道の石は小さな堰堤が幾つか続いている沢で、一合目から二合目までのこの辺りは所々平らにならされているようです。たぶん、屋敷が続いていたと想像され、かたわらに苔蒸した石塔や墓石が数個集められていました。過ぎ去った時間の分だけ、石の色形は風化しているようです。
 沢から道が離れて左へ大きく曲がる辺りが屋敷跡の一番奥で、ここらには寺があったともいわれています。ジグザクとなった道は右へ左へと次第に登り詰めていきます。息が切れそうなほどの坂道が続いて、木立がスギやヒノキから次第にクヌギなどの雑木に代わってきました。七合目辺りからは、雑木も小さくなり、光が射してくる林の中の道が、軽快に感じられるようになってきます。所々、右下に景色が見られるようになって、ずいぶんと高見へ登ってきたことが分かります。
 ようやく尾根が見えてくると、左に入る小道がありますが、その先の尾根伝いには曲輪があって対面所が設けられていたということです。尾根に出て左へ階段を登ると、草むらに桜の木が10本ほど植えられているだけの開けた場所があります。今はわずかに石垣の名残などがあるだけの八木城の本丸が置かれた跡です。
山頂の本丸跡には苔蒸した石垣がわずかに残され、まさに荒城の面影を今に伝えているようでした。
  
眼下には亀岡盆地一帯が手に取るように見え、ここからは京から攻めてくる敵の軍勢が老ノ坂辺りから見えていたといいます。 城山頂上からの景色
東雲寺石垣 内藤家は武家としての歴史が古く、守護の細川家の守護代として口丹波一円を領有しました。麓の東雲寺にはその屋敷があったと伝えられています。
■内藤ジョアンの人生の軌跡
ジョアン顕彰碑  本丸跡の広場から眼下を眺めると、黄金色の豊かな実りを見せる田園風景の中をうねるように桂川が流れ、八木町や亀岡市の町並みがあります。丹波の山々に囲まれた亀岡盆地の全域が手に取るように見えます。
 右手の方には老ノ坂の峠があり、その向こうには見えないけれど京都の町があるはずです。その京の都から八木城へと明智光秀の軍勢が攻めてきたのが天正3年(1575)、光秀の丹波平定とともに内藤氏は没落し、八木城も荒れ果てていきました。
 ところで、ジョアンは名を内藤飛騨守忠俊といい、17歳の時に、京の都にあった南蛮寺において宣教師のルイス・フロイスから洗礼を受けキリシタンとなりました。足利義昭につかえ、その身を守るために、織田信長に対峙し、丹波から十字架の旗をひるがえし、自らIHSの文字をはめ込んだ兜をかぶり、二条城へと2000人の軍勢を送ったと伝えられます。
内藤ジョアンゆかりの地として城山の麓に顕彰碑が建てられ、墓があるマニラ市と八木町は姉妹都市として交流を深めています。
 また、文禄の役(1592)では秀吉の軍に加わり朝鮮半島へ従軍し、また小西行長の命により講和使節として明の都北京へもおもむいています。その後、関ヶ原の戦い(1600)で行長が滅亡すると、ジョアンは同じくキリシタン武将として名高い高山右近とともに加賀の前田家に保護されたりしています。慶長17年(1612)の徳川幕府によるキリシタン弾圧が激しくなり禁教令が発布されると、ジョアンも改宗を迫られますが、あくまでも信仰を貫くことを決心し、高山右近とともに日本から追放されます。
 慶長19年(1614)、ジョアンらを乗せた船は長崎を出て、途中暴風雨などに遭遇しながら、ようやくフィリピンのマニラに到着します。そして、マニラでは殉教者として歓迎を受けます。翌年、高山右近は死亡しますが、ジョアンは中国の医学書などの翻訳をし、また日本人町の指導者として活動しながら、信仰に支えられた生活を続けて、寛永3年(1626)、その波瀾に満ちた生涯を終えます。ジョアンの亡骸は、マニラ市郊外の高山右近の墓の側に埋葬されたと伝えられています。
 春日神社の真新しい社殿がまぶしく見える三叉路に「ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかりの地」の顕彰碑が建てられています。そこから、内藤家の屋敷が置かれたという東雲寺や細川勝元により創建されたという龍興寺の風格ある伽藍まで歩いてもすぐの距離です。かつて八木城があった時代、桂川が蛇行し流れていたという穏やかな風景が目の前に広がり、城山が秋空に映えてそびえていました。
 
 

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商工観光課
TEL:0771-68-0050

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